日フィン友好100周年「ラハティ・ポエトリーマラソン2019」リポート(1/3)



 日フィン友交100周年を記念して、今年6月にフィンランドのラハティ市で開かれた<ラハティ・ポエトリーマラソン2019>。
 「ラハティ国際作家の集い(Lahti International Writers’ Reunion)」では、日本を代表する詩人として管啓次郎さんが講演を行ないました。講演で管さんは、フィンランド語と日本語にまつわるユニークな思索から、詩の方法論へと展開。会場は大きな拍手に包まれました。
 管啓次郎さんは湖と森に囲まれた舞台でフィンランドの詩人、クリスティーナ・ヨハンソンさんとともに詩を朗読し、湖上のステージでは、シンガーソングライターの小島ケイタニーラブさんが歌い、そこに管さんも特別出演。白夜の美しい夏のひとときを彩りました。
 管啓次郎さんの講演内容の全文、管啓次郎さんがラハティ滞在中に創作した詩と帰国後に綴ったエッセイ、小島ケイタニーラブさんの書きおろしエッセイをご紹介します。
 フィンランドファンのみなさん、そして、白水社の『フィンランド語辞典』『ニューエクスプレスプラス フィンランド語』などで学習されている方々にも、白夜のラハティに思いを巡らせてみていただければ幸いです。

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リユニオン、四元素、そして歩行について
――ラハティ国際作家の集い、初日開幕のスピーチ

管啓次郎

 みなさん、こんにちは。まずこの美しいラハティの町、そしてみなさんのリユニオン(集い、再集結)にお招きいただいたことに、心からの感謝を申し上げたいと思います。真夏のいまは、一年のいちばん良い季節、心が浮き立つ季節ですね。こうしてお会いできるのは大変にうれしく、また名誉なことだと考えています。
 昨日ヘルシンキで、この小さなスオミ(フィンランド)語=日本語辞書を買いました。ぱらぱらと見ているうちに爆笑しました。言語間パン(駄洒落)みたいなものが、いくらでも見つかったからです。
 いくつか例をあげてみましょうか。
 フィンランド語の単語「キッサ」とは猫のことですよね。日本語で「キッサ」というと「お茶を飲むこと」です。それで「喫茶店」といえばカフェのことになります。こう聞くとただちに、猫がたくさんいる日本の猫カフェのことを思わずにはいられません。
 フィンランド語の「クツ」は招待。「クツ」は日本語では靴のことです。たちまち想像力が始動し、こんどどこかに招かれたら新しい靴を買わなくちゃと思うことになるでしょう。
 フィンランド語の「ウニ」は夢を意味します。日本語で「ウニ」というと雲丹のことで、鮨レストランでもっとも珍重される素材のひとつです。人によってはあまりに雲丹好きなため、雲丹ばかりをつづけて食べたりもします。きっと夢にまで、海底に散らばったトゲトゲの生物の群れが出てくることでしょうね。
 フィンランド語の「カンサインヴェリネン」は、日本人の耳にはとても滑稽に響きます。そこに「カンサイ」という言葉が入っているからです。「カンサインヴェリネン」とは「国際的」という意味ですよね。日本では関西とは西日本の古い地方のことで、京都も大阪も神戸も含まれます。この地方の文化は東京のそれとは大きくちがっています。そして東京をベースに活動している人間としても認めなくてはならないのは、関西地方のほうがたしかに「国際的」な気質にみちているということです。概して他人に対して開かれていて、外国人にも親切なことが多いように思いますし、いろいろな文化シーンの活動や交流も活発です。
 こうして見ると、どの場合も、ごく小さな言葉が想像のための触媒となって、私たちを異文化の融合という謎めいたゾーンへと招き入れてくれるようです。言葉遊びとは、夢がどのように織られるかの秘密そのものかもしれません。笑い飛ばすこともできますが、こうした駄洒落から得られる小さなよろこびが、私たちの好奇心を大きく励ましてくれることは、よくあると思います。
 言い換えるなら、これらの言語間駄洒落には、音の類似による意味の再集結があるわけです。なぜ再集結かといえば、それぞれの意味はもともと個々の言語の発話に住みついて、いつも存在したものだったから。ついでそれらが再発見され、あなた自身の経験として、初めて再集結するのです。それはあなたの目の前で、あなたの耳と知性と体の反応を巻きこみつつ起こる、ひとつの事件です。思うに、人々がたくさん集まるときにも、ちょうどこんな事態が、いろいろなレベルで起きているのではないでしょうか。私たちは再集結する、まるでお互いをずっと知っていたかのように。そして出会ったどちらの側においても、想像力を発火させるような何かの火花が飛ぶ。集合的な創造(ポイエーシス)が起きるのです。みなさん、ぼくと再集結してくださって、ありがとうございます。

 以上に申し上げたことは言語間駄洒落をめぐるぼくの考察ですが、われらが永遠の亡命者ジム・ジョイスの精神に倣ったものでもあります。ブルームズデイ(6月16日)、おめでとうございます。それでは少し話を変えて、ぼく自身の詩における自然=性向について話してみることにしましょう。

 1970年代、ぼくはありふれたティーンエイジャー詩人でした。ついで20歳を迎えるころには、自分の作品を書くことをすっかりやめていました。それからの30年は、批評家、エッセイスト、翻訳者として生きてきました。ついで2008年、50歳になろうというとき、また詩を書くことにしよう、真剣に書こう、という決意をしました。みなさんの中で、ぼくとおなじ年代の方なら、そんな「今やらなくてはもうやるときがない」という気分をわかってもらえるものと思います。
 まず、こんな問いからはじめました。「何について書くつもりだい、あるいは、何についてなら書ける?」と。しかしその答えは、もうわかっていました。四元素、あるいは四大です。 地水火風は、ソクラテス以前の哲学の大きな関心事でした。これら、世界と私たちの想像力と感情を一瞬ごとにかたち作る、宇宙の基本的な力が、ぼくの詩の主題となりました。日常の環境が突然、宇宙的舞台となり、それぞれの瞬間はなんらかの真理が閃く危機的瞬間として発見され、再発見される。どんな真理、といわれれば、それは答えがたいことです。でも開示されるのは、人の存在と生成に基本的な枠組を与え、人生に意味を与える、裸の真理にはちがいありません。
 ぼくはまた、書くときの形式も意識していました。自分のプロジェクトには4という数字が大きな意味をもつだろうと考えたのです。日本語で「4」はシと発音され、これは「詩」および「死」と同音です。マイナスの数字どうしを掛け合わせるとプラスになるように、ぼくは突拍子もない、魔術的といっていい計算を想像していたようです。死かける死は生。死かける詩は生。4かける4の16は生、そういったことです。算術的には何の意味もありませんが、建築の発想としては使えます。ぼくは16行の詩を書くことを決意し、それを64片で1冊の詩集にし、4冊でシリーズの256片が完結するというかたちをとることにしました。これが初期構想です。 そして詩の主題はアルス・ポエティカ、つまり詩学。それで「アジャンダルス」というタイトルにしたのですが、これは「アートのアジェンダ」でも、「アートのエージェント」でもあるわけです。こうして2010年から2013年にかけて、毎年1冊ずつの詩集を出しました。
 こうして詩の形式と主題が決まりました。いざ制作をはじめるにあたって、単純な方法論も欲しかった。歩くこと、がそれです。以前からぼくはイギリスの歩くアーティストたち、たとえばハミッシュ・フルトンやアンディ・ゴールズワージーに興味をもっていました。かれらの作品に見合ったものを、別のかたちで作れないものだろうか。そう思っていたとき、幸運にも日本人の美術作家、佐々木愛と知り合うことになりました。彼女もまた風景や気象や植物や動物などに関心をもっていました。またわれわれは、ふたりともアオテアロア=ニュージーランドが大好き、それも生態学的=社会学的=歴史的総体において大好きだったので、これも話が通じやすかった理由のひとつです。それで、きわめて簡単な手法によって共同制作を開始することにしたのです。
 まず、山や海岸に一緒に歩きに行く。都会に戻ってきて、理想的にはある程度の時間が経ってから、制作にとりかかる。彼女は描き、ぼくは書く。この間、作業は独立して行います。しかし一緒に歩いたときの記憶に立っているため、われわれの作品は見えない連想でむすばれているのです。こうして「ウォーキング」というシリーズを作り、これまでに30点ほどの作品を各地の美術館やギャラリーで発表してきました。この数はいまも増えています。64点が目標です。ぼくの詩集『Agend’Ars』に収められている詩のいくつかが、この「ウォーキング」シリーズからの作品です。
 実際の詩を見てもらうのが、ぼくの基本的な、土地に根ざした美学を知ってもらうにはいいでしょう。次の詩は、「ウォーキング」シリーズからではありませんが、密接に関係して、歩行の意味を率直に語っているものです。3冊目の詩集『海に降る雨』(2012年)の「LI」です。英訳したときに”Walking as a Prayer” というタイトルをつけました。

  歩くことそれ自体に祈りとしての価値があるのだと
  その部族では子供のころから徹底して教えられるのだ
  実際かれらはそれでよく歩く
  毎日決まったいくつかのポイントを踏みながら
  巡回する、かれらの領土なき土地を
  草花の名を唱え
  樹木に手でふれながら
  視界の片隅をそっとかすめる
  鳥の飛行や虫の動きにもよく気づく
  ポイントごとに祈る対象が決まっているのだ
  ここでは地、生命を物質として成立させる根拠
  ここでは水、流動と循環により動きを演出する
  ここでは火、世界に体温を与えすべてをいきいきと乾かすもの
  ここでは風、無にもっともよく似た存在の究極の秘密
  こうして土地がかれらの祭壇となった
  祈りの一形式としてのかれらの歩行

 こうして見ると、ごく客観的にいって、ぼくの詩は自然詩、エコロジー詩だと見られることだろうと思います。われわれ人間の社会がいかにさまざまなものの自然的・物質的布陣に埋めこまれていることかと、ぼくはしばしば想像してきました。3人の友人たち(暁方ミセイ、石田瑞穂、大崎清夏)との共作による連作ソネットは『地形と気象』というタイトルです(左右社、2016年)。このタイトルがすべてを物語っています。私たちはある土地に住み、いかなる瞬間にあっても土地が与えてくれるものに貫かれている。そして私たちの感情はつねに周囲の気象の波に洗われています。この単純な事実を、ここフィンランドのラハティのような美しい土地でふたたび思ってみるのは、すばらしいことです。私たち全員を包み、異質なものたちの集合としてのリユニオンを実現してくれた、ここで。
 ありがとうございました。


地元ラハティの新聞では、「ラハティ国際作家の集い」に参加する管啓次郎さんが1面で大きく紹介された。

管啓次郎(すが・けいじろう)
詩人、比較文学者。明治大学大学理工学部教授(批評理論研究室)。翻訳者、エッセイストとして四半世紀を過ごした後、詩の実作に転ずる。2010年の第一詩集『Agend’Ars』以後、『島の水、島の火』『海に降る雨』『時制論』『数と夕方』『狂狗集』(以上、左右社)、英文詩集 “Transit Blues”(University of Canberra)を発表。10年、スタンフォード大学での学会Transpoetic Exchangeにジェローム・ローセンバーグとともに詩人として招待されたことを皮切りに、これまでに十数か国の詩祭および大学で招待朗読を行なった。11年、エッセイ『斜線の旅』で読売文学賞受賞。英語・フランス語・スペイン語からの翻訳も多数。最新詩集『犬探し/犬のパピルス』(インスクリプト)


>2 「一年で最も暗い夜」クリスティーナ・ヨハンソン/「ラハティ、みずうみ (Lahti, järvi)」「湖まで歩きながら」管啓次郎

>3 「湖(järvi)とカモメ(lokki)の街へ」小島ケイタニーラブ

 

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