第65回岸田國士戯曲賞選評

該当作品なし

 

受賞作なし……。   岩松 了

 小田尚稔『罪と愛』……いろんな意味で未熟さを感じたが、この作品には作者の“書かざるを得ない思い”がある。物語から遠く離れて、いわば悶々とした青年の状況が散乱している印象だが、それは未熟というよりそこにドラマを感じるという“そこ”が表立った事象にではなく“人がそうやって生きている”という一点に絞られてるからだと思われる。男を四つの人格に分けるのはいいが、途中母親の話に出てくる高校球児は男5として、四つの人格を見ている存在であるべきだ。そこに何らかの対決があるとすれば、それが物語というものではないだろうか。

 根本宗子『もっとも大いなる愛へ』……「わかりたい」という情動から発して、それを阻む対話のズレに対する異常とも言える不安を極大化してみせるところに演劇としての挑戦を感じた。作者のこれまでのこだわりをその不安に絞っているという意味で自分の演劇に対する新たな視点であると思えて面白く読み進めたのだが、男女、姉妹、という二組の状況に変化が乏しく、それぞれの問題を抱えて合流する女と妹が「なぐさめ合う」ところに行ってるのが弱い。ここで、愛という言葉は都合が良すぎると思う。

 金山寿甲『A−②活動の継続・再開のための公演』……オープニングのファッションショーに意表をつかれて、ラップにかけるエネルギーに感心し、寅さんからパラサイトへの流れに大笑いした。サービス精神に満ちた、というと嫌かもしれないけれど、関心事が批評もしくはパロディの方に傾きすぎていて自身の迷路を見せてくれないのが作品自体を薄味にしている。これはタイトルが示すように継続・再開のための公演だと思えば、今後の作品に期待する次第。

 岩崎う大『君とならどんな夕暮れも怖くない』……前回候補作になった作品に比べて数段面白いと思ったが、一番の問題はヒューマノイドと人間の差異に興味を持たず、ただ呼び方を変えているだけだということ。だから切実なものがそこにない。進化から取り残されてゆくヒューマノイドといっても、結局笑いの材料にしかなり得てないのではないかという思いが消えなかった。

 横山拓也『The last night recipe』……まず、無駄なセリフが多すぎる。これがリアルな会話だと思ってセリフを書いているのかもしれないが、ただお話を書いてるに過ぎない。それは人物の登退場への配慮の無さにもつながる。言葉(セリフ)は肉体とともにあるし、双方の間に起こるドラマを見ることなしに演劇は成り立たない、と思う。

 長田育恵『ゲルニカ』……なぜイグナシオがテオを殺さなきゃならないの? イグナシオとサラがあれでわかりあえる? と疑問は尽きない。事象ありきで、それを支えるもの(それこそがドラマだと思うのだが)に目を向けてないのでどうしても事象そのものが受け入れがたいものになっている。「人間の命を奪うのは何だと思う? 爆撃でもない。飢えでもない。希望だ。」と大見得切るのなら、その言葉に責任とって欲しい。

 内藤裕子『光射ス森』……この善人たちの集まりにどうしてもついていけなかった。食卓に父親と呼ばれる人がいるともう、酒を飲んでるとか新聞読んでるとかで実は経験豊かな尊敬されるべき大人って、古風なテレビドラマ? 人物の造形が安易すぎる。シーンの時間をずらしたりすることも、その狙いが安易で説明の域を出ていない。

 小御門優一郎『それでも笑えれば』……この作品に関しては、もちろんこうした映像を使った遊び(挑戦?)を否定するものではないが、すでに演劇ではない、と思った。この作り方が向かうのは精神の迷路を避けようとする“題材の一般性”と、人間の肉体を軽視する“井戸端会議”とでも言うべきところで、いずれにしても演劇との関係は疎遠になっていくだろう。映像など使わず井戸端会議を徹底させていけば演劇として別の可能性もあると思った。

 

わたしたちは今回、授賞作を出せなかった。   岡田利規

 1

 岩崎う大氏の『君とならどんな夕暮れも怖くない』においては、ひとつの寓話的世界が立ち上げられているのだが、わたしはそのことに効果なり力を感じることができなかった。
 それは、『君となら……』において施されている寓話化がわたしには、現在の現実世界で起こっている主要ないくつかの潮流(たとえば新型コロナウィルスのパンデミック、ブラック・ライヴズ・マター、 Me too ムーヴメント、など)をかなり直接の参照項としているように思え、そしてそれを、現実の事象を単に架空世界のそれへと置き換えたという以上の何かであると思えなかったからだ。
 寓話化によってそれが参照元としたある特定の現実がそのまま描かれる以上の広い射程・より鋭い批判性といったものを獲得したとき、それは有効ですぐれた寓話であると言えるだろう。『君となら……』の寓話化は現実そのものが抱えている問題をむしろ人畜無害化・弱体化させて〈あんぜん〉に提示する機能しか果たしていないとわたしには感じられた。

 2

 長田育恵氏の『ゲルニカ』は、まず内容面においては、ゲルニカ空爆という歴史的悲劇そのものがすでに持つドラマ性とは別の作品固有のドラマ(=劇)に乏しい。ゲルニカ空爆という出来事を知らなかった人がこの作品を通してそれを知ったとしたら、それは価値あることがひとつ起きたと言えるけれども、その価値は現実の出来事をひとつ知ったことに依るものであって、この作品を経験したことに依るものではない。
 たとえば第6場にイシドロという、以前はゲルニカの領主の下で仕えていたが今は独立し食堂を営む登場人物の、以下のせりふがある。

「俺は、蠟燭を灯す係だったよ。窓のない廊下をずうっと通っていく。両脇の壁には肖像画がびっしり飾られて、火が揺らめくと、こっちを見下ろして、俺を咎めてるみてぇに見える。だが、その役目は嫌いじゃなかった。なんつうか、善い行いをしてると思えたからな。けど、まさか王政が倒れて──王様が逃げるなんてよ──でもって共和国なんてもんになってよ。おまけに、選挙で人民戦線が勝った日にゃ──俺ァもう、 ザアッと風に吹かれた気分だった。大空からの風だ。日向の匂いがする。気づいたら万歳って叫んじまってた。自分が今まで暗がりにいたんだって気づいちまったんだよ。あの廊下に戻るのは、二度と御免だと思った。」

 ここで語られていることの中には、瞠目すべきドラマの種がある。なんといっても、一人の人間にその価値観の変更が生じたのだから。たとえば、これをひとつのドラマ(=劇)としたらよかったのに! こんなふうにせりふひとつで片付けてしまうのではなくて。

 また形式面においては、『ゲルニカ』はそこに払われている意識が低いと思った(同じ印象は横山拓也氏『The last night recipe』に対してもわたしは抱いた)。ある具体的な時間と場所が設定された舞台空間を登場人物たちがリアリズムの演技態で生きている、というのがこの『ゲルニカ』の形式である。これは〈普通〉の形式の演劇、と言ってもよいかと思う。ところが『ゲルニカ』は場面が簡単に切り替わりすぎてしまう。これはオーソドックスな、というかごく平凡な見解にすぎないけれど、〈普通〉の形式の演劇が力を帯びるひとつの手立ては、一つの場面に一定以上のひと続きの時間が流れる、その中を登場人物が出入りする、その様子を通して人物たちのドラマや彼らの生きる社会・時代が、時に浮き彫りのような仕方であらわれる、というものだろう。このごくありきたりな認識を痛快に覆してみせることを目論んでいる作品、というわけではないのであれば、正統的な作法に意識的かつストイックに準じたほうが、〈普通〉の形式の演劇が持つポテンシャルは発揮されるだろう。

 今回の候補作の中で、〈普通〉の形式のオーソドックスな作法に相対的にもっとも意識を払っているとわたしが感じられたのは内藤裕子氏の『光射ス森』だった。今回の八つの候補作のなかでわたしが肯定的な気持ちを持ったのはその『光射ス森』と小田尚稔氏『罪と愛』と金山寿甲氏『A−②活動の継続・再開のための公演』の三つである。
 『光射ス森』は奥居家居間、沢村家居間、というふたつの室内空間を舞台とする場にしっかり時間が与えられているのがよいと思った。ただし山の斜面の場がどれも短くてこれは残念だった。また、第4場があまりうまくいっていない。林業の苦境を描写する際、背景となる補助金制度なども説明することが必要だし、それを登場人物のせりふに落とし込むのは簡単ではない。ナレーション、という手法に逃げたりしていないことに対して、心から敬意を表したい。あとは、どうにかしてそのことに成功してほしい。そのとき〈普通〉の演劇の力強さが体現されるだろう。

 3

 小田氏の『罪と愛』は、切実さが形をとっている。それが好きだった。文学作品であったり犯罪者の手記であったりといった先行テキストの引用・言及によってその切実さ──それは、あえて一言でいうとすれば、〈常識的〉な社会生活への自らの不適合性に苛まれること──をひとつの普遍的な問題として意識的に系譜付けようとする姿勢も好きだった。
 主人公たちの部屋に同居している蜘蛛や鼠が登場人物であったり、彼らが死んでしまったり、というのも、アイデアとしてとてもよいと思った。けれども、そのアイデアのポテンシャルがじゅうぶんに体現されたテキストになっているとは思えなかった。第Ⅱ部の男3と鳩にパン屑をやる女とのあいだの会話は、すばらしかった。全編がこの水準の密度・濃度を備えていたら、すばらしかった。

 4

 金山氏の『A−②活動の継続・再開のための公演』はいくつかのネタをつないだようなテキストであって、一貫した構成はそこにはない。テキストには狭い演劇界の内輪ネタのようなものも散見されて、そこに〈普遍性〉があるのかといえば、わたしはそれもないと思う。でも、そんなことどうでもいいよだっておもしろいんだから! とほとんど言いたくなるほどに、金山氏の書く言葉はおもしろい。おもしろいだけでなくて、世相を茶化してやろう(ついでに演劇界のことも)、なんか悪さをかましてやろう、なんか風穴を空けてやろう、という態度がそこに宿っている。そのことがわたしは好きだ。このセンス・スピリットでもって言葉を次から次に繰り出していってほしい。
 その挑発的な態度に基づいた希有なセンスがあともう少しエグいところまで発揮されていてほしかった。一貫した構成のなさ? 〈普遍性〉のなさ? そんなことどうでもいいよだっておもしろいんだから! と強く声高に選考会で主張したくなるだけの、徹底した何かがあると感じられたらよかった。たぶん、そこが物足りなかったからわたしは『A−②活動の継続・再開のための公演』を強く推すことができなかったのだと思う。

 5

 ある戯曲を読む経験、ある演劇をみる経験、いやそのほかのどのような経験に対してもだけれども、わたしは、それを経験した自分に、それ以前の自分からの何らかのレヴェルにおける変容が生じることを求めている。小御門優一郞氏『それでも笑えれば』は、わたしにそのような変容をほとんどまったく引き起こさなかった。
 ところで、『それでも笑えれば』は〈オンライン演劇〉である。選考会の中で、〈オンライン演劇〉は岸田戯曲賞の候補に入れるべきではないのではないか、〈オンライン演劇〉が範疇に入るのであれば映画やテレビドラマの台本だって範疇に入るべきということになってしまいはしないか、という意見が出た。わたしはそれには同意しなかった。〈オンライン演劇〉とはいまだ得体の知れないキメラみたいなものだ、とわたしは思いたい。「これは確かに演劇のテキストである、戯曲である」と言えるような、あるいはそれをめぐってこれは演劇(戯曲)か否かという激しい議論が起こるような、オンライン演劇(のテキスト)はきっといつか現れる。その時のために岸田戯曲賞も〈オンライン演劇〉に対する門戸は開いておくべきだとわたしは思う。ただし今回の候補作の中には、そのようなものはなかった。根本宗子氏『もっとも大いなる愛へ』も〈オンライン演劇〉である。わたしはこの作品の抽象を志向する手つきに対して、ほとんどまったく納得がいかなかった。これは〈オンライン演劇〉という形式と関わる是非ではない。

 6

 わたしは今回の選考会における各候補作への採点としては、内藤氏にサンカクプラス、小田氏と金山氏にサンカク、岩崎氏・長田氏・小御門氏・横山氏にサンカクマイナス、根本氏にバツを付けた。マルを付けるに値すると思える作品を見つけられずに選考会に臨んだ。そしてわたしたちは今回、授賞作を出せなかった。

 

△をつけた四作はどうして○でなかったか   ケラリーノ・サンドロヴィッチ

 2021年1月下旬に候補作を受け取った。前年は、まあ誰にとってもだが、劇作家にとっても大変な一年だった。しかしながら、書き手たちが、コロナ禍でもがきながら戯曲を書き上げたこと、ましてや戯曲賞の範疇外である「公演を遂行したこと」、その気概やら努力やらを、同じ劇作家として身を以って感じているからこそ、そんなものを作品への評価として加点することの無いよう、そこのところは気をつけて読み込み、評価を決めたつもりだ。

 残念ながら今年の候補作には胸を打つものが無かった。脅威に感ぜられるような得体の知れない作品も。

 選考会の冒頭に行う投票に於いて、今年から選考委員になられた矢内原氏がふたつの作品に○を投じた以外、他の委員はすべての候補作に×か△をつけた。これは極めて異例な事態であるが、自分だけが不作を感じていたわけではなかった。

 私に△をつけさせた候補作、兎にも角にも俎上に載せてみるべきではないかと思わせるに至ったのは次の四作である。

『A−②活動の継続・再開のための公演』 金山寿甲
『君とならどんな夕暮れも怖くない』 岩崎う大
『罪と愛』 小田尚稔
『もっとも大いなる愛へ』 根本宗子

 この四作について述べ、選評とする。

 『罪と愛』は、叫べど叫べど届かぬ作者の声を、4人の男のスケッチに分散させて見せる。終始仄暗いトーンで、小さな世界の、小さな町の、小さな部屋の、小さな人間の、痛みと可笑しみのタペストリーが、文学的な匂いを以ってたちのぼる。ドストエフスキーをはじめ、多くの小説、ルポルタージュ、歌詞からの引用が特徴的な作品である。それら引用の「手つき」に疑問を感じた。すべての「引用元」を仔細に辿ったわけではないけれど、「引用」が、「引用元」で見せていた景色とは異なる何かを見せてくれないこと、多くが「シーンのまとめ」であるかのようにして、原典と同様の表情のまま機能していることが、私には物足りない。

 『もっとも大いなる愛へ』は、これまで読んできた同作家の戯曲に比べ、物語や笑いによるサーヴィスをグッと抑えた純度の高いダイアローグに引き込まれた。前半での関係性を後半ひっくり返す仕掛けも刺激的であり切実さも受け取った。終盤が大きな失点で、作者の混乱を感じる。制約の中で、言っておかねばならぬことを全て吐き出そうとしてのようにも思え、残念。そのまま最後を歌で締めたのはもっと残念。もっとも、歌で終わらせるのを残念に思うのは、これが戯曲賞の選考だからだ。書くまでもないが、戯曲からは歌声も旋律も聴き取ることはできない。

 『君とならどんな夕暮れも怖くない』は人間とアンドロイド(作中ではヒューマノイド)の共存の物語。手垢に塗れた題材と敢えて向き合い、「今だからこそ」という意思も意義も感じさせる娯楽作に昇華させたことは、ひとまず評価に値する。劇中浮き彫りにされる、差別/被差別、支配/被支配といった、この先も人類が永遠に抱え続けるだろうテーマに、「割り切れなさへの肯定」とでも言うべき明確な姿勢で対峙しているのが気持ちいい。昨年候補に上がった『GOOD PETS FOR THE GOD』より、会話術は格段に有効性を高めている。それでも、この題材は小説界に遙か先を行かれていると感じた。ウエルベックの『ある島の可能性』は15年以上前の作品なのだ。構えとしてメタ構造を選択したことを失敗とは言わぬが、ならば外側の人物を脅やかす仕掛けが欲しかった。

 『A−②活動の継続・再開のための公演』。エピローグまでは「あらゆるモノを、とにかく悪意を以って笑い飛ばす」という強い意志を感じてグッときていた。最後の最後まで全方位に向かって悪意ある笑いを貫いてくれていたら、他の選考委員から、「これが戯曲と言えるのか? コント集の構成台本ではないのか?」なんて意見があろうとも「いや、戯曲だぁ!!!」と声の大きさで叩き潰してやったことだろうし、「内輪ネタばかりでは?」なんて意見だって「だとしても、それがなんだよぉぉ!!!」とやはり声の大きさで叩き潰してやったことだろう。エピローグで見せてしまった意外な真面目さは致命傷と言ってもいい。「劇場の灯を消すな そんな言葉恥ずかしくて顔から火が出る」と(ラップで)言い放った直後に「なら笑わす 来年も必ず A−②活動の継続・再開のための公演のために 来てくれた皆さんのために」と謝意らしきものを表してしまうのはあまりにもったいない。あらゆる「真面目」は意味を剝ぎ取られ、なんらかの「馬鹿馬鹿しいもの」に置き換えられねばならないはずなのだ。先ほど「全方位に向かって悪意と笑いで貫く」と書いたが、「全方位」は作者自身をも含む。「これはある特定の攻撃目標をサタイア化している」と理解されることを拒否してこその笑いだからカッコよく、圧倒的なのだ。とつい思い込みを書き連ね、ふと思ったのだが、ラップって、総じて自己肯定感強いのは何故だろう。これも思い込みだろうか。

 

大きく構える   野田秀樹

 今年の作品は、いずれも「甘い」。ゆえに受賞作なしとなった。少々手厳しい物言いをさせてもらえば、「このくらいの感じのものを書いておけば芝居になる」と思っていないか? ということだ。
 いろんな作風があるだろうが、そのいずれにしても、「もっと大きく構えませんか?」と訴えたくなる。我々は今、「目の前ですぐに結果を見せないといけない」、「短い言葉で答えを出さなくてはいけない」そんな世界を強いられている。だからこそ、自戒の意味をも含めて、「創作するものは、大きく構えないといけない」。勿論、個々の「創作」の苦しみは、分かっているつもりなので、そんなことはないという反論が返ってくるのも重々承知だ。だが早い話が、オンラインナントカといったような言葉に騙されておろおろしていてはいけない。「演劇」はそんなところにはない。オンライン配信を否定しているのではない。ビデオ撮影が貴重な映像になったように、貴重にはなりうるかもしれない。だが「演劇」そのものにはならない。そして、「演劇」の上演の為に書かれるのが「戯曲」であるのならば、「戯曲」は「オンライン」の為に書かれてはならない…と考える(もちろん仕掛けとして使うことは否定しない)。

 今年の作品の中では、金山寿甲氏の『A−②活動の継続・再開のための公演』が面白かった。言葉が弾んでいる(ま、ラップだから当たり前なのだろうが…)。天性の言葉遊び好きなのだろう、こういう才は、一つの病である。良い。取り上げている素材である「文化庁のなんたらかんたら」には、私も一年間、大変な思いをさせられて取り組んだ側の人間であるから、的を射ており笑わせてもらった。その素材も含めて、作品全体は「上昇志向」と「俺たちを受け入れないこの世への憎悪」が基調となっている…気がした。すなわち「うっせえ」という声である。私がこの作品を「甘い」と呼ぶのは、その「うっせえ」の声は聞こえました。「で、どうする?」ということです。徹底的な「ラップ」という言葉遊びで立ち向かうのか、どうするの? そこがはっきりしない。だから「甘い」。だから最後、お客さんにありがとう、なのか。「うっせえ、マスクを取れよ」くらいのことは言って欲しかった。この「ディスる悪意」に徹するならば。
 他にも小田尚稔氏の『罪と愛』も、「大きく構えよう」とする志はあるように思えた。特に、高校球児のボールの壁あての件(くだり)は面白かった。あそこをもっと膨らませるべきだ。が、全体としては、まだ、「無頼に憧れている作家」の楽屋落ちに思えた。金にならない「演劇」という道を選んだ人間には誰にも覚えのあることである。昔(今も健在か?)、大川興業というパフォーマンス集団があって、彼らは「金なら返せん!」と、貧困演劇人の暮らしを表現として昇華させた。あそこまで行って欲しい。
 長田育恵氏の『ゲルニカ』は、労作なのだが、日本独特の「翻訳文学」の悪しき表現に憧れているところが目立った。明治以来の「新劇」という西洋文化コンプレックスが産んだ「お芝居っぽいセリフ」が私の耳には、かえって、リアリズムに聞こえなかった。
 また「女にしか伝えられないこと」が、「妊娠と赤ちゃん」というのもいただけない。創作者はそこに逃げ込んではいけない。作り手が最後に陥りやすい「甘い罠」である。
 内藤裕子氏の『光射ス森』も、資料を丹念に読みこみ、上手く書こうとしている。多分、上手く書いたのだろうが「甘い」。「人間」が甘い。…と、故井上ひさし選考委員ならおっしゃっただろう。悪い人を書けばいいというものではない。だが、「年配者には経験があり知恵がある」というステレオタイプな思い込みだけで、作品すべてが貫かれている。山が好きな、良い人たちばかりの、良い二家族の話で、古き良き時代のテレビドラマの「甘さ」だけが残った。

 すべての作品に、少しばかり辛辣な物言いをさせてもらったが、「可能性」は、どの作風においても大きいと感じる。こんな「年寄りの世迷いごと」に惑わされることなく、時間をかけて「大きく構えて」引き続き、創作に専念していただきたい。

 

最も重要なのは普遍性   平田オリザ

 まったく皮肉で、とても残念なことだが、選考委員になって六年で、今年が最も全員の気持ちが一致した年だったかもしれない。できることなら、なにがなんでも受賞者を出したかった。新型コロナウイルスの影響で演劇界全体が大きな苦難に直面した二○二○年の活動を、どうにかして記録に残したいと全選考委員が考えたと思う。
 しかし一方で、候補作に積極的に推したいというものがなく、この中から受賞作を出してしまっては過去の受賞作、あるいは過去に受賞できなかった作品と比べても、大きな乖離が起こると誰もが感じた。
 私以外の選考委員もそうだったと思うのだが、いつも審査には絶対的な自信などなく、特に今年は他の選考委員が積極的に推すものがあり、そこに納得できる論理があれば賛成をしてもいいとさえ考えていた。しかし、残念ながら、そのような作品もなかった。
 候補作の中では、小田尚稔さんの『罪と愛』の世界観に興味をひかれた。
 本作はアパートの一室を舞台に、そこに住む四人の男たち(別々でありながら渾然一体としている)の生態を描写することで成り立っている。その構成自体はいいのだが、もっとも残念なのは「男1」を劇作家としてしまったことだ。この一点において、作品世界が極めて小さいものとなり、他の男たちは「男1」の分身にしか読み取れなくなってしまう。演劇に劇作家を出すということは、よほど注意深くあらねばならないし、少なくとも本作においては、その意図は十分に発揮されていたとは思えなかった。
 また本作は、多くの注釈があるように、多数の引用によって成り立っている。それが、どちらかと言えば、作品構成においてのエクスキューズのように見えてしまいマイナスに作用していたように思う。独自の世界観を持った作家だと思うので、できれば、そういったものに極力頼らない作品も読んでみたいと感じた。
 他に、岩崎う大さんの『君とならどんな夕暮れも怖くない』にも好感を持った。ただ、選者が「好感を持った」と書くときは、それにとどまっているという意味であり、まさに本作はそのような作品だった。
 私のつたないロボットに関する知識から見ても、本作は近未来に人類が直面するであろう事態を過不足なく描いている。ロボットと人間の関係をよく調べられたのだろうと思う。前回読ませていただいた作品に比べて、笑いの使い方にも抑制的でバランスがとれている。しかしここには、たしかな技術や戯曲創作に対する丁寧な態度は見て取れても、岩崎さん独自の世界観はあまり見えてこない。
 私の個人的な意見としては、岸田賞の様々な選定基準の中で、最も重要なのは普遍性だと思う。であるからこそ、岸田國士戯曲賞は我が国最高峰の新人戯曲賞としての権威を保ってきた。
 もちろん「戯曲は時代を映す鏡だから再演の可能性など考慮しなくていい」という考え方もあるだろう。ただ百歩譲ってそうであったとしても、ならば圧倒的な瞬発力のある「いまでしか書けない」「今年しか書けない」作品を読みたかった。コロナを題材とした、あるいはオンラインを題材(あるいはそれを直接手法)とした作品には、「たしかにコロナ禍の本質はここにある」と感じさせられるものはなかったし、新しい発見もなかった。
 阪神淡路大震災、オウム真理教事件、東日本大震災、過去の戦争、私たち劇作家は大きな歴史的事件や厄災から、いかに距離をとって作品を創るかに腐心してきた。それらの出来事のなかから普遍的な要素を抽出し言葉を紡ぐのが演劇の役割だろうと私は思う。各候補作の作家の作品に対する真摯な態度は疑うべくもないが、技術の問題なのか、作品の主題に対する呻吟が足りないのか、いずれにしても、「この人はもっと書けるはずだ」という作品ばかりが並んでしまったように感じた。

 

私には受賞作なしという選択肢はなかった   矢内原美邦

 今回初めての選考委員ということもあって八本の作品すべて緊張感をもってじっくり読ませていただいた。舞台作品として好評を得た作品も数多くあるようだが、私はどれも観ていない。あくまで戯曲として読んだ。だが、読んでいてぐっと引き込まれるような魅力的な作品は正直多くなかった。それでも私には受賞作なしという選択肢はなかった。私が受賞作に推した作品は小田尚稔『罪と愛』と、金山寿甲『A−②活動の継続・再開のための公演』のふたつ。

 小田さんの作品は、生活困窮からアパートの更新ができないというエピソードから始まる。冒頭のシンプルな台詞が、リアルな苦しみと同時に笑いを誘う。多くの人がいま直面している身近な問題にたいする作者独自の痛々しいユーモアに読み手は共感を覚える。しかしシェイクスピアやウィリアム・バロウズなどから引用されたいくつかの台詞たちとどう向き合うべきなのか、この現実を覆い尽くす得体のしれない不安をどう描くのか、やはりそこは作者自身の強い言葉でしっかりと締めくくってほしかった。そこが強く推せなかった理由のひとつ。

 金山さんの作品はファッションショーから始まる。よくあるファッション批評の中身のない言葉の羅列が消費社会への皮肉を感じさせ、作者の反骨精神を窺わせる。この社会に対する作者の構え方にまず私は共感する。そうした華々しい世界との対比として、演劇世界の貧しさや苦しさが描かれる。そこにある多くの矛盾も伝わってくる。最近よく使われるラップ調のリリックと、その手法と共に目まぐるしく変化する展開は、時に乱暴ではあるが、よく言えば型破りとも言えるし、舞台の上で行われるパフォーマンスとしての魅力は十分に感じられる。観たいと思う。ただ純粋に戯曲としての言葉の強さ、テーマの強さや構成など、読み物としての魅力に欠いたという印象は残った。それが強く推せなかった理由。

 このふたつの作品からは、意識化できないことを意識化しようとする葛藤を感じた。そこから生まれてくる言葉のいくつかも私は感じ取った。作者の内的経験が、言葉として、台詞としてちゃんと存在している部分もあるとも思う。それでも絶対にこの作品! とは言い切れなかった。私には受賞作なしという結果を受け入れることしかできなかった。その結果は残念でならない。受賞作なしは二〇〇七年以来のことらしい。そのときノミネートされていた名前を見るといまや第一線で活躍している人ばかりだ。今回の八人の作家にも受賞作を出さなかった選考委員たちを見返すような活躍を今後もしてほしいと思う。

 

お知らせ(2021年7月1日)【柳美里氏の選評は公開を見送ることといたしました。柳氏から頂戴した原稿のうち、全体の7割は今回の作品選考には直接関わらない内容でしたので、選評に相当する3割部分のみの公開を柳氏に提案いたしましたが、残念ながらご同意いただけませんでした。】

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